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何かに凝ったりすると必ず「幻の・・・」というもの遭遇する。時計の蒐集をしてれば「幻の時計」っていうのを聞くはずだし、切手コレクターにも「幻の切手」っていうのがあるはず。絵画、書籍、レコード、焼き物、彫刻。芸術全般には、この「幻の・・・」がたくさんある。
映画にもご多分に漏れず「幻の映画」が多数アリ。戦前・戦中には検閲などで破棄された名作が多かったと聞くし、戦争の混乱の中でネガ自体が紛失してしまい、文字通り現存しない幻になってしまった作品もあったらしい。
戦後になると、作品の存在は明確だが「諸事情により」公開されなくなった幻の映画が結構ある。丹波哲郎さんが物凄い演技をしてるらしい「人間革命」、大ヒット作なのに封印されてしまった「ノストラダムスの大予言」、テレビでは「ウルトラセブン」の第12話が「諸事情により」欠番とされているのが有名なところか。
この「幻の映画」の真打と言える映画が三島由紀夫監督・主演の自主制作映画「憂国」だろう。俺も一時期三島文学に傾倒したことがあったので、「憂国」はむちゃくちゃ見たかった。
小説の「憂国」は忠義と愛と性と死というテーマを凝縮した大傑作。それを「書いた本人が映画化した」と知れば、見たいと思わないファンはいないだろう。
だが、三島本人が本当に割腹自殺した後、三島本人が割腹自殺をする主人公を演じた「憂国」はセンセーショナルになりすぎた。遺族の意向でフィルムは焼却された。
・・・が。夫人の死後、ネガが三島邸から発見され、 「憂国」は突然21世紀に甦るのである。DVDが4月28日に発売されたのだ。
俺は、女房を質に入れてもこのDVDは買ったね。
見たよ。昨晩。
すごいよ。これ。
今まで見た個人映画の中で最強の作品だ。
ある個人がその個人のためだけに作る映画、個人映画。2つの美大に足掛け6年も行ってた俺は、腐るほどの個人映画を見てきた。それは、学生映画のほとんどが個人映画だからだ。個人映画とは、見る人のことを考えない映画である。自分の言いたいことだけを言い、自分の見たいもの、見せたいものだけを写す。見る人(観客)のことを第一に想定する娯楽映画と対極に位置するといえるだろう。だから、娯楽映画を相手(観客)を必要とする「セックス」と考えれば、相手を必要としない個人映画は「マスターベーション」と呼ぶことができる。
娯楽映画と対極に位置する芸術映画も同じく観客を第一とは考えないので、個人映画と混同されることが多い。しかし、美大の映画学科で「芸術映画」を撮っているつもりになっている学生のほとんどは「個人映画」を撮っているだけである。では、どこに「芸術映画」と「個人映画」の区別があるのか。それは他人が見ても感銘できるマスターベーションなのか、各自の部屋だけでやって欲しい自慰行為なのか、である。才能があるフィルムメーカーのオナニーであれば、それは自ずと見る側に何かを与えるのだ。つまり、作る側にとっては「芸術映画」と「個人映画」の差は無い。気持ち良くブッコク。これだけだ。だから、「芸術映画」と「個人映画」の区別は見る側がつける。ということは、同じ映画を見ても「個人映画」だったと思う人もいれば、「芸術映画」だったと思う人もいるということだ。即ち、これらの映画と一般娯楽映画の大きな違いは、見る側も試されるということだろう。究極に言えば、芸術とはこのようなものなのだ。数学や科学のように答えはひとつではない。これが、古今亭志ん朝師匠の言葉を借りるなら、「文化、つまり余裕」ということである。ムンクの画を見て涙を流す人間もいれば、笑う人間もいる。そして素通りしてしまう者も。だから、俺は大学で見た数多くの「個人映画」を否定しない。それらは俺にとっては「個人映画」でも誰かにとっては「芸術映画」の可能性もあるからだ。
前置きが長くなってしまったが、三島の「憂国」は、史上最強の個人映画であると思う。本当は自室でやって欲しいマスターベ
ーションの部類なのだが、あまりにもパワフルなため、個人映画なのに見る者を圧倒してしまうのだ。三島の、三島による、三島のための忠義と愛と性と死の物語。そして赤裸々に描かれる切腹への憧れと偏執。見たくないものを見せられてしまったのにそれを至福と思わせてしまう、そんな稀有な映画が「憂国」だった。言い方を変えれば、観客に迎合することを完全に拒否した純然たる個人映画にもかかわらず、「憂国」は見る者を制圧するのだ。
天才作家三島由紀夫は、天才映画監督でもあった。もし、1970年11月25日にこの世を去らなければ、日本を代表する映画監督のひとりになっていたかもしれない。そう思うと彼の早い死が今更ながらのように惜しまれる。 |